『はみだしっ子』は、罪を乗り越える物語ではない。
罪を抱えたまま生きる物語なのかもしれない。
はみだしっ子を語るうえで、避けて通れない出来事がある。それが、雪山での遭難事件だ。
この作品は、4人の少年が居場所を求めて放浪する物語として始まる。
しかしある地点を境に、空気が決定的に変わる。
雪山事件は、4人の放浪時代の終わりだった。
純粋に居場所を探していた彼らが、罪を抱えたまま生きていかなければならなくなった瞬間—その転換点こそが、雪山事件だった。
バスジャック、雪山での遭難、そして極限状態の中で起きたある出来事。幼い4人の少年たちは、意図せず人を死に追いやってしまう。
善意でも、悪意でもなく、ただ生き延びようとした結果として。
あの雪山での出来事が、4人の少年たちに影を落とし続ける。
子どもに罪はあるのか。
罪悪感とは何か。
そして人は、自分の犯した罪とどうやって折り合いをつけて生きていくのか。
この記事を読んでいるあなたは、おそらくすでに『はみだしっ子』を読んでいるだろう。
それでもあの事件の意味を、改めて一緒に考えてみてほしい。読み返すたびに、新しい痛みが忍び込んでくる作品だから。
雪山で何が起きたのか|事件の全容
物語の序盤、4人はバスジャックという思いがけない事件に巻き込まれる。
犯人たちに連れ回された末、逃げ込んだ先は雪山だった。
大人の庇護もなく、その日の食事にも事欠く生活を送ってきた4人にとって、極限の状況がさらに重なっていく。
雪山の中で、4人は生き延びるために必死だった。
その極限状態の中で起きたある出来事が、物語のすべてを変える。
悪意ではない。ただ、生き延びようとした結果だった。
そして、マックスが、無意識のうちに人の命を奪ってしまった。
グレアムとアンジーだけが事の重さを理解していた。だから、マックスを守るために、二人が事実を隠蔽した。
その重さを胸の奥に押し込めたまま、グレアムとアンジーはその後の人生を歩き続けることになる。
助けを求めてその場を離れたサーニンは、何が起きたのかを知らない。だが、助けを求めるために一人その場を離れたのに、何もできなかった後ろめたさが、心の重りとなる。
それぞれの形で、その記憶は消えない。薄れることもない。
特にグレアムは、誰よりも深くその出来事を自分の内側に刻み込んでしまった。
ここで重要なのは、この事件が「誰かが悪い」という単純な構図で描かれていないことだ。
三原順は、善悪の判断を読者に委ねるように、ただ事実を積み重ねていく。
だからこそ、ページをめくりながら自分自身に問いかけずにはいられない。
これは罪なのか、と。
そしてもし罪だとしたら、幼い子どもがそれを背負わなければならないのか、と。
雪山事件は、4人の間に見えない壁を作った。
事実を知り、隠蔽を共有したグレアムとアンジー。
無意識に引き金を引きながら、その事実を知らされなかったマックス。
助けを求めてその場を離れたサーニン。
同じ出来事を経験しながら、4人はまったく異なる重さのものを、それぞれの内側に抱え込んでいった。
罪悪感という名の呪い|グレアムの崩壊
しかし事件以降、その鎧はさらに厚く、さらに硬くなっていく。
ようやくてにいれた「家族」のもとでも、その影は消えなかった。
グレアムはそこに完全には馴染めない。
愛されることへの恐怖、自分が愛される資格があるのかという疑念—それらはすべて、雪山での出来事と地続きだった。
グレアムが誰より深く罪を刻み込んでしまったのは、彼が誰より深く考える人間だったからだと思う。マックスを守るために隠蔽を選んだその瞬間から、グレアムは自分自身を裁き続けていた。
グレアムは罰を受けなかった。だからこそ、自分で自分を罰し続けるしかなかった。
アンジーも同じ秘密を共有していた。しかしアンジーとグレアムでは、罪の抱え方がまるで違った。アンジーが前を向こうとする分、グレアムはより深く内側へと沈んでいった。同じ重さのはずの秘密が、二人の間にもまた、見えない壁を作っていたのかもしれない。

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